世界遺産「白川郷・五箇山合掌造り集落」は1995年12月、ユネスコの世界遺産一覧表に文化遺産として登録され
た。相倉には23棟の合掌造りが現存するが、約100年から200年前のものが多く、古いものは四百年前に建造され
たといわれている。屋根の勾配は急で六十度。断面は正三角形に近く、つまり雪の滑り落ちやすい形。この大きな屋根を
支えるのは、根元の曲がったチヨンナと呼ばれる太い梁。斜面に生育した自然に曲がったナラを用いている。又合掌の組
立には釘は一切打たず、縄とネソと呼ばれるマンサクの木を使用。屋根の葺き替えは15年から20年ごとに(今は森林
組合が中心)になって行われている。雪深いという厳しい自然に対応する強固な造り、さらに生活の場と生業の場をひと
つにした合理的な建築です。人々の生きる知恵が生んだ偉大な発明それが、合掌造りといえます。
五箇山の古名は五ケ山。現在の平村・上平村・利賀村の全域で約367kuの山間地を指す。明治5年に五ケ山の名称
が廃止(1872年)となる。特殊性のある地域性から「五箇山」という総称が今もよく使われ有名な平家落人伝説は、口碑
と1806年(文化3)北茎著「奇談北国巡杖記」の平家の類葉落居して村民となり今に子孫あまたある事にて官名を名
乗る・・・に見られる。同書に南北朝の遺臣遁入説源、人形山・金剛堂山の山岳宗教などの伝説や古記録も散見できる。
1585年(天正13)砺波郡を前田利長が受封して、五箇山は加賀藩治下に入り、下梨村市助を代官に年貢銀50貫文
を収めた。1603年(慶長8)金子22枚を金納、05年塩硝2000斤を年貢納、19年(元和5)の検地を経て年
貢銀納制となり、56年(明暦2)からは金子137枚余と鑞(ろう)、漆、蓑、紙役を銀納した。これは廃藩まで一定して
いた。年貢稼ぎとして塩硝、和紙、養蚕の家内手工業が主産業になり、大家族的奉公人制度と切妻合掌屋根の大型家屋が
発達。1732年(享保17)には村数70、家数997、人数は6834を数えた。現在は地域住民約60人の方が生活
されています。五箇山塩硝・加賀藩時代の主産業で五箇山地方で作られた鉄砲火薬の原料。
( )内は撮影年月
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