平成7年(1995)12月、「白川郷・五箇山合掌造り集落」が、世界遺産委員会で正式に世界遺産として登録(ユネスコ
の世界遺産一覧表に文化遺産として)された。大きな三角形の切妻を見せてそびえ立つ合掌家屋と集落の歴史的景観、そ
して周囲の自然環境などが良好に保存されていることが、日本を代表する歴史的遺産として高く評価されたもので、国内
では6件目。
五箇山の古名は五ケ山。現在の平村・上平村・利賀村の全域で約367kuの山間地を指す。明治5年に五ケ山の名称が
廃止(1872年)となる。特殊性のある地域性から「五箇山」という総称が今もよく使われ有名な平家落人伝説は、口碑と
1806年(文化3)北茎著「奇談北国巡杖記」の平家の類葉落居して村民となり今に子孫あまたある事にて官名を名乗
る・・・に見られる。同書に南北朝の遺臣遁入説源、人形山・金剛堂山の山岳宗教などの伝説や古記録も散見できる。
1585年(天正13)砺波郡を前田利長が受封して、五箇山は加賀藩治下に入り、下梨村市助を代官に年貢銀50貫文
を収めた。1603年(慶長8)金子22枚を金納、05年塩硝2000斤を年貢納、19年(元和5)の検地を経て年
貢銀納制となり、56年(明暦2)からは金子137枚余と鑞(ろう)、漆、蓑、紙役を銀納した。これは廃藩まで一定して
いた。年貢稼ぎとして塩硝、和紙、養蚕の家内手工業が主産業になり、大家族的奉公人制度と切妻合掌屋根の大型家屋が
発達。1732年(享保17)には村数70、家数997、人数は6834を数えた。
相倉には23棟の合掌造りが現存するが、約100年から200年前のものが多く、古いものは四百年前に建造されたと
いわれている。屋根の勾配は急で六十度。断面は正三角形に近く、つまり雪の滑り落ちやすい形。この大きな屋根を支え
るのは、根元の曲がったチヨンナと呼ばれる太い梁。斜面に生育した自然に曲がったナラを用いている。又合掌の組立に
は釘は一切打たず、縄とネソと呼ばれるマンサクの木を使用。屋根の葺き替えは15年から20年ごとに(今は森林組合
が中心)になって行われている。雪深いという厳しい自然に対応する強固な造り、さらに生活の場と生業の場をひとつに
した合理的な建築。人々の生きる知恵が生んだ偉大な発明それが、合掌造りといえます。
撮影日時・2015年1月5日(2013年・2012年はバーナーに記載)
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