2024/09/10   7:45    更新時天気  曇り 気温  26.7℃

富山の公園見直し更新
 富山の公園は当初、ブログに掲載したものを後にまとめて掲載したが、現
在は逆になっている。 No.17は薬勝寺池公園で、 掲載内容を増やして、コー
ドも整理した。初期に掲載のものは画像数が20だったが、現在は40〜 7
0になっている。                 薬勝寺池公園案内図



リニューアル後の水辺の広場


水辺の広場から立山連峰               2024/05/11


水辺の広場から東側、みどりの広場方向 噴水は池の浄化用


南側の入り江の湿地に生えるヤナギの樹


遊歩道からの風景


駐車場付近の薬勝寺池を一周する遊歩道


遊具広場

富山の公園 17 射水市 薬勝寺池公園


HP「北陸の私鉄」今日の壁紙


高岡古城公園の明丸から内濠側のイロハモミジ 2024/08/08 撮影
猛暑で濠にアオコが発生している
1920 X 1080


今日の列車(JR西日本氷見線・城端線)

高岡駅に停車中のキハ47形氷見行き 2024/05/03 撮影
キハ47 1064他 547D
1920 X 1080


今日の動物 

黒部市総合公園のムクドリ 2014/05/02 MN撮影
1920 X 1080


今日の植物

氷見市十二町潟のハナショウブ 2014/06/21 撮影
1920 X 1080



県庁前電停から北日本新聞社
  


県庁前公園から北日本新聞社ビル


北日本新聞社ロゴ  画像:北日本新聞から

富山県の新聞なのに、なぜ「北日本」? 北日本新聞の
名前の由来は…
2024年9月9日  05:00
  富山県を拠点とする地方紙「北日本新聞」。前身である「中越新聞」が創
刊された1884(明治17)年から数えて今年で創刊140年を迎えた。
でも待てよ、なぜ「北日本」なのか。意外と知られていない弊社の名前の由
来をあらためて調べた。

 北日本新聞の名前の由来や名付け親については、これまでに何度か本紙に
登場したことがある。「聞いた(読んだ)ときには『へ〜!』と感心させら
れるけど、しばらくするとうろ覚えになってしまい、聞くたびに『へ〜!』
となる雑学」くらいの印象のエピソードなので、読んだことがあっても正確
に覚えている人は少ないのではないだろうか。

 インターネット上ではどうだろう。オンライン上の百科事典「Wikip
edia」にある「北日本新聞」の項目では、「1940(昭和15)年7
月31日に北日本新聞社設立」とある。さらに「8月1日 言論統制下の新
聞事業令に基づき富山日報、高岡新聞(1931年、高岡新報より改題)、
北陸日日新聞、北陸タイムスの4紙が統合して北日本新聞を創刊」と書かれ
ている。富山でも高岡でも北陸でもなく「北日本」を冠した理由は触れられ
ていない(2024年9月8日時点)。

富山県は「北日本」?
 そもそも「北日本」とはどのエリアを指すのか。気象庁の定義によると、
北日本は北海道、東北を指し、富山を含む北陸は「東日本日本海側」「中部
地方」に分類されている。多くの人が日々接している天気予報で「北日本」
に富山県が入っていない影響は大きいようで、ネット上でも富山県の新聞社
が「北日本」を名乗ることへの疑問がいくつか見つかった。

 ただ地理関係の辞典などを調べてみると別の視点もあった。北日本の説明
として、次のように書かれている。

地理学辞典 改訂版
「元来東北日本もしくは東日本の一部を意味するが、地体構造や地質・地形
のうえでは東北日本・東日本と同義に使うことがある。日本列島は、関東地
方以西で東西方向を示すのに対し、関東地方で方向を変えて南北方向となる
ので、この部分を北日本と表現するが、その範囲は北海道・東北地方で関東
地方は通常含まれない」
「しばしば北陸地方を中心とする日本列島の日本海側、裏日本の北部を北日
本と呼ぶことがあるが、これは中世以降北陸を北国(ほっこく)とも称した
ことからくる関連性もあろう」

コンサイス日本地名事典
「東北地方・北海道の総称。地体構造・地質・地形上ではしばしば東北日本
・東日本と同義。狭義には北海道を指す。北国(ほっこく)は北陸と同義で、
北日本と部分的に重なる」

 「東北や北海道の総称」である点は気象庁の定義と同じだが、北陸を中心
とする日本海側を意味することもあるとしている。背景として「中世以降北
陸を北国とも称したことから」と指摘しているように、京都を中心に日本を
見ると北陸を「北日本」と呼んでもおかしくはない。実際、北陸に「北日本」
を冠する企業はいくつもある。

一度は却下
 では具体的にどのような理由や経緯で「北日本新聞」になったのだろう。
「北日本新聞百二十年史」を読むと、主な理由は以下の通りだ。

・明治期に東京で発行されていた新聞「日本」にあやかった
・加藤金次郎(統合前の北陸日日の社主で、統合新会社の取締役)が主張した
・統合する4社(富山日報、高岡新聞、北陸日日新聞、北陸タイムス)のど
 れにも類似していない
・最も無難である

 もう少し詳しく説明すると、経緯はこうだ。まず1933(昭和8)年に
「富山新報」の経営権を買い受けた加藤金次郎が、紙名を改めるよう主張し
「北日本新聞」を候補として提案した。以下、社史から引用する。
 加藤金次郎は「富山新報」の題字では田舎くさい、北陸制覇を目指すにふ
さわしい題字をと首脳陣に注文をつけ、「北陸日日新聞」に改めさせた。こ
のとき、いくつかの候補名が持ち出され、加藤は、明治期に東京で発行され
ていた新聞「日本」にあやかって「日本新聞」か「北日本新聞」ではどうか
と主張したが、「日本」では大きすぎ、「北日本」では東北・北海道の新聞
と間違われやすいと反対の声が出て、あっさり自案をひっこめている。

 「北日本新聞」という名称案は却下され、「富山新報」は「北陸日日新聞」
に変更された。誰の発言かは示されていないが、「東北・北海道の新聞と間
違われやすい」という反対の声は説得力を感じる。実際、県外から富山県に
引っ越してきた人から「富山県の新聞とは思わなかった」と言われたことが
ある。

 ただ「富山県(または北陸)の新聞と伝わらない」ではなく、「東北・北
海道と間違われやすい」という指摘になるあたり、「北日本」が北陸を含む
エリアを指す用語としても認識されていることがうかがえる。

 社史の年表によると、この議論から約30年さかのぼる1901(明治3
4)年に高岡市で「北日本新聞」が創刊され、2年後の1903(明治36)
年12月に廃刊になったとある。詳細は記されていないものの、おそらく当
時は富山県または北陸の新聞社が「北日本」を名乗ることに違和感はなかっ
たのだろう。

 「北日本新聞」を主張した加藤金次郎(1884〜1966年)は土木実
業家で、多彩な活躍をしている。「富山大百科事典」によると、滑川町で土
木請負業加藤重右衛門の子として生まれ、県内の電源開発や鉄道敷設に関わ
ったほか、朝鮮や台湾でも農場やダム、鉄道などを手がけ、滑川町長も務め
た。独自の工法を編み出して特許を取るなど発明家としての一面もあった。
経歴を見ると、「日本新聞」という名称を提案しても不思議ではないスケー
ルの大きさを感じさせる。

 「小学校卒業後、父の作業現場で働いて重用される。『太閤記』や『三国
志』を愛読して才知に秀で、15歳のころに海岸突堤工事の囲石枠工法を案
出して注目を浴びたという」とも書かれており、現代に生まれても起業家と
して大活躍しそうだ。
再び候補として浮上

 いったんは却下された「北日本新聞」だったが、1940(昭和15)年
に富山日報、高岡新聞、北陸日日新聞、北陸タイムスが統合する際、新紙名
候補として浮上した。北陸日日新聞を経営し、統合会社の経営陣に加わった
加藤が再び「北日本新聞」を主張したためだ。社史には「名付け親は加藤金
次郎」という見出しに続き、次のような経緯が記されている。
 新紙名はいろいろ候補名が挙げられたが、加藤金次郎の主張する「北日本
新聞」が四社のどれにも類似せず、最も無難であるということで全員の一致
を見た。加藤は昭和八年の「富山新報」改題のとき、明治二十二年から陸羯
南(くが・かつなん)が東京で発行していた新聞「日本」にあやかって、そ
の「北」に位置するからと「北日本新聞」を提案して実らなかったことがあ
る。

 現在に続く北日本新聞の誕生である。あらためて社史を読むと、北日本新
聞の前身である中越新聞が創刊号で政府批判をしていきなり発行禁止処分に
なるなど、決して無難ではなく、むしろ先人が多難な歴史を乗り越えて今が
あることが分かった。

 「東北・北海道の新聞と間違われやすい」という懸念は解消されていない
が、紙面もwebunプラスも富山県内の情報満載で、富山県の地元紙であるこ
とは間違いようのない内容だ。富山で暮らす人や富山にかかわる人にはぜひ
読んでほしい。(本田健司)
記事:北日本新聞から