万葉線の沿革           2017/12/30 更新
 万葉線は高岡駅前−六渡寺間の軌道線と六渡寺−越ノ潟間の鉄道線に分けられるが歴史的にも2つに分けることができる。鉄道線部分は、富
山から北へ向かい四方(よかた)へ出て、富山湾沿いに西へ新湊までの軌道を敷設、沿線旅客および海産物、米穀等を輸送する目的で1922(大
正11)年12月26日に射水電気軌道鰍フ名称で軌道法に基づく免許を取得した。 1923(大正12)年2月に越中電気軌道鰍ニして創立

1924(大正13)年10月12日に富山北口−四方間6.1kmが開通した。
 1926(大正15)年7月21日には富山北口−聯隊橋間(聯隊橋は現富山大橋)と四方−打出浜間を延長
聯隊橋では富山市電(市営)に接続し
て郊外線的機能を伸ばし、打出浜には海水浴場を開いた
しかし業績は芳しくなく地方鉄道補助法の適用を受けるべく1926年に軌道を鉄道
に変更し
1927(昭和2)年2月をもって社名も越中鉄道鰍ニ改めた。1929(昭和4)年より打出浜より西の延長工事が少しずつ開通してゆき、1933(昭和8)年12月25日に聯隊橋(新富山)−新伏木口(現:六渡寺)まで19.9kmが全通した。その後富山県西海岸の基幹交通
として活躍してきた。
 一方軌道区間は戦時中、伏木・新湊方面への工場従業員輸送のために、富山地方鉄道の手によって着工されたが開通したのは戦後の1948
(昭和23)年となった。
この時開通したのは地鉄高岡−伏木港間7.3kmで高伏線と呼ばれていた。車輌は日立電鉄などから四輪単車を譲り受
け使用した。
 さらに1951(昭和26)年に湶町(現:広小路)−米島口間が複線化されると同時に、米島口−新湊間が開通し射水線と接続し富山−高岡間
が繋がった。その後、1959(昭和34)年4月に加越能鉄道が地鉄高岡−新湊間を譲り受けた。同時に地鉄高岡を新高岡と改称し電停の位置
を現在のウイングウイング高岡の向かい側に移動した。
 1966(昭和41)年、富山新港の築港のため、富山地方鉄道射水線の越ノ潟−堀岡間が切断されることになり、この間はフェリーで連絡す
る事になった。
高岡側に残る射水線の越ノ潟−新湊間4.9kmは加越能鉄道に譲渡され、新湊港線となった。
 昭和40年代後半になるとモータリゼーションの影響が大きくなり各地の地方鉄道・軌道が廃止されていった。高岡軌道線のうち、伏木線と
呼んでいた米島口−伏木港間 2.9kmも1971(昭和46)年8月31日限りで廃止された。さらに射水線は港口切断の影響もあって切断直後
の1967(昭和42)年には一日の平均輸送人員が9600人であったが、1970(昭和45)年には7500人となり営業係数も210とな
って、富山地方鉄道は射水線の廃止を決定したが、猛烈な反対運動が起こり、国、富山県、富山市、新湊市の欠損補助を受け運行されたが、輸
送人員が増えることもなく、遂に1980(昭和55)年3月31日に廃止となった。
 加越能鉄道に残った区間も状況は同じであったが、国、富山県、高岡市、新湊市の欠損補助を受け、加越能鉄道の経営努力もあって存続した
が、2002(平成14)年3月31日をもって加越能鉄道の区間は廃止となり、4月1日より第3セクターの万葉線株式会社に経営が引き継が
れた。

加越能鉄道万葉線


加越能鉄道へ譲渡 行き違い可能だった新高岡駅  1960
 

伏木港線の矢田電停で行き違うデ7053とデ5024
 

通勤通学時間帯4両編成で走る射水線電車
 

越ノ潟−堀岡間の射水線越の潟橋梁   
 

中新湊−越ノ潟は30分間隔  中新湊駅 1998/08/29
 

高岡駅前に停車中のデ7062越ノ潟行き   1998/10/03
 

越ノ潟駅 短いホームが使用されていた  1999/03/13
 

六渡寺駅で行き違うデ7061とデ7051  1999/04/11
 

七夕飾りの中を走る加越能電車とバス  1999/07/31
 

内川橋梁を渡るデ7075越の潟行き   2000/04/17
 

米島口を発車したデ7072高岡駅前行き   2000/10/07
 

庄川橋梁を渡るデ7061高岡駅前行き   2001/09/16
 

米島口に到着するデ7061高岡駅前行き   2002/03/02
 

2002/04/01から第3セクター万葉線(株)に引き継がれた