高岡市海老坂、小矢部川左岸にそびえる二上山の支峰(標高259m)に築かれた城。松倉城(現魚津市)増山城(現砺波市)と並び越中三大山城の一つと称される。守山城は別名を二上城、海老坂城ともいう。
現高岡市伏木の国府に近く、西の加賀とは、小矢部川の水運や川沿いの街道によって結ばれていた。城山からの眺望もよく、氷見市、射水平野一帯を見渡せる。特に、古くから日本海有数の港であり、鎌倉時代に守護所の置かれた放生津(現射水市)も眼下に望む事ができる。こうした政治・経済上の要地に城が立地する。
城の創建は南北朝時代に遡り、1352年(観応3)には桃井氏の拠点となっており、能登から侵攻した吉見勢に攻められている。当時、この城のある山は師子頭と呼ばれた。南北朝時代の後半には、守護斯波義将が入城。現在、麓にある守護町は当時の守護所にちなむとみられている。
室町時代に入ると、射水、婦負2郡を治めた守護代神保氏の拠点となり、1519年(永正16)には越後の長尾為景によって城の麓が放火され、落城寸前に追い込まれる。このころ、守山城は神保氏の本拠であった放生津城の詰城(つめじろ)的な役割を果たしていたとみられる。戦国時代の末期には神保氏張が居城し、佐々成政の有力武将として活躍。しかし85年(天正13)成政が豊臣秀吉に降ると前田利長が入城し、97年(慶長2)まで居城とした。その後前田
長種がしばらく城を守りやがて廃城になった。 城跡一帯は、その後藩有林だった。城は山頂部の本丸を中心に階段状に郭を連ねたものだったが、公園化や自動車道建設によって遺稿がかなり損なわれている。古代から神の山として崇められ、今も市民の心のふるさととして親しまれている二上山(鉢伏山)。
二上山万葉ライン 美しい景観を楽しめる場所がたくさんあり、「パノラマ富山発見ルート」と名付けられている。越中の国守としてはるばる奈良の都からやってきた「大伴家持」は、奈良の二上山(にじょうざん)と同じ名の山が国庁のすぐ近くにあるのに感激し、二上山(ふたがみやま)を特別の思いをもって歌に詠んでいます。滞在した5年の間に223首の歌を詠み、それが万葉集に収められています。
小矢部川の蛇行 小矢部川は、富山、石川両県の大門山に源を発し全長68km、流域667平方kmの緩流河川でいく
つもの支流を集め、庄川扇状地の末端を曲流しながら富山湾に注ぐ。勾配が急で流れも速い多くの県内河川の中にあって
流路の70%が平野部を流れ、特に下流部は複雑に蛇行し県内では珍しい緩流河川。
平和観音像 本丸城跡にある平和観音像は、世界の平和と繁栄を祈願するため市制80周年を記念して建立(昭和45年5月24日)本体ブロンズ製で6mの像。二上山公園は桜の名所、二上山万葉ラインは山並みを巡る約8kmのドライブウェイで冬季は閉鎖される。
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