増山城(砺波市増山字一の丸3324)は守山城(高岡市)、松倉城(魚津市)と並び越中三大山城の一つと称される。守護代神保氏の歴代が拠点とした。
庄川の東方、芹谷野(せんだんの)丘陵を越えた標高120メートル(比高70m)のところにあり下を和田川が曲流して環濠の役割を果たす。和田川手前の平地に城下町があった。南北朝時代の1362
年(貞治1)桃井直常を攻めた守護斯波(しば)高経の将二宮円阿が合戦のあとひと冬を警固した和田城は、この城の北
部分で亀山城ともいう。戦国時代上洛を目指す越後の長尾(上杉)勢がしばしば越中へ侵攻し、この城を攻めた。 1506年(永正3)長尾能景は神保慶宗を攻めて芹谷野で討ち死、子為景は20年来攻して慶宗を討っている。孫の景虎(上杉謙信)は1560年(永禄3)以来数次にわたって来攻、1576年(天正4)増山城をはじめ越中の諸城を落とし、能登の七尾城をも手中にするが、その翌々年に没する。
1581年には織田信長の将佐々成政勢が増山城へ入り、1585年(天正13)には前田氏の領国となって重臣の中川光重が城を守ったが間もなく廃城となった。 遺構がよく残っており、県指定史跡(1965年1月1日)。平成21年7月23日に国指定史跡となる。
一の丸跡は、本来は本丸を指すが、構造的に本丸とは考えがたい。杉野家絵図に「一の丸」「枡形」の記載がある。西側斜面に堅堀がつくられている。「二の丸」主郭。数々の郭は、二の丸を守るように配置されており、敵兵がもっとも侵入しにくい場所にある。虎口下には城跡内で唯一の石垣がある。規模が小さく、防御機能よりも権力誇示と見られる。
増山城は、かつての「和田城」とも考えられる。但し、縄張り等から亀山城が和田城とみる研究者もいる。現在の和田川ダム側から登りました。越中三大山城の本丸まで行くのに、この増山城は一番大変でした。戦国時代に上杉謙信が警戒した城といわれる「要害堅固な城」であったことを実感できる。
増山城跡の新名所冠木門(かぶきもん)が2010年10月27日完成した。
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